「……やっぱ、宛ちゃん帰すべきじゃなかったかな……」
「どーしたんさ、唐突に」
「んー……」
「……宛雛がおったところで、あやつの力は人間には強すぎて使えんのだろう? おぬしは十分過ぎるほど良くやっておるよ」
「うん……ありがと望ちゃん……」










第39話
 ―ひとつの日没










北の地で倒れた姫昌を連れ、一行が西岐の城に戻って来てから、早数日。
は帰還するなり寝台の横にほぼ付きっきりになり、一日の大半を姫昌に向かって双輪雪を発動させることに費やし続けていた。


「……しかし、この調子ではおぬしのほうが体を壊すぞ?」
「大丈夫よ。ちゃんと食べてるし、寝てるし。栄養剤まで飲んでるし。むしろ普段より気ぃ使ってる。だって、私が倒れたら誰が姫昌さん診るのよ?」
「むぅ……」


流石に心配になった太公望が注意しても、はひらひらと右手を振って軽くいなすのみ。
長年姉弟子を見てきた天化の方は、こうなったには何を言っても無駄なのは分かっているので、注意はしない。


「まっ、俺っちにできることがあったらいつでも言って欲しーさ」
「……ありがと天化。さっすが、良く分かってらっしゃる」


ニッ、と悪戯っ子のような笑みを見せるに、天化は苦笑する。
が頑として譲らないであろう事は分かっていても、彼とて心配する気持ちは傍らで難しい顔を崩さない太公望と同じ。
太公望は暫くの手元を見つめていたが、彼女の働きが必要なのも身に染みている為か、「あまり無理をしすぎるでないぞ?」と一言残して、静かに部屋を後にした。





「……で?」


太公望の気配が完全に無くなった頃、天化がぽつりと切り出した。
主語は無くても、そこはさすが姉弟弟子。戦闘中以外も意思の疎通は完璧。
は怪訝な様子を見せる事無く小さく嘆息すると、姫昌の方を向いたまま答える。


「……補強してるのよ」
「補強……?」
「最後の糸が切れる時に、少しでも時間が稼げるように」


返って来た答えは、遠回しな、比喩的な表現ひとつ。
はっきり言ってしまえば、それはもう、姫昌には……殆ど手の施しようが無い、ということ。

――これは、人間である以上、どうしようもない宿命。
仙道とはいえ、まだほぼ「人間」と同じ時間の流れを生きる若い二人には、余計にずしりと重く圧し掛かる。


「ねぇ、姫昌さん……私は、『流れを変える力』に、なれたのかな……? それとも、まだこれから? ……これからかな、やっぱり」
「………」


昏々と眠り続ける姫昌に語りかけると、それを後ろから静かに見守る天化。
そんな時、四つの瞳が集中するその瞼が、の言葉に反応したかのように、小さくピクッと動く。

それとほぼ同時に、の背筋に震えが走った。


「……?」
「……空気が、変わった……!!」
「え?」


緊張を感じ取った天化が呼びかければ、一瞬遅れて振り返ったの額には脂汗が浮かぶ。
つうっと頬を流れた冷や汗とそれとを見れば、次に出てくる言葉は。


「天化! 皆を呼んできて!! 早く!!!」


――の声を背に受ける天化は、彼女が言葉を発する前から駆け出していた。








「戦いの準備は終わった……。新しい国をつくるのは、発……おまえに回す……」
「おう……! 任せとけよ、おやじ!!」


――姫昌が、意識を取り戻した。

その事実は嫌な予感と共に、瞬く間に城中を駆け抜けた。
姫昌の寝台を取り囲むように、ひとり、また一人、バタバタと集まる姫一族や太公望一行。
周りの人の顔色を窺うまでもなく、場の全員は共通して、残された僅かな時間を感じ取っていた。

姫昌も自身の最期は理解しているのか、口をついて出てくるのは遺言めいた言葉。


「わが児よ、これから太公望を私の代わりと思え…。太公望は信ずるに足ると私は見た。必ずや西岐を良い方向へと導いてくれよう」
「………」


姫昌の小さな溜息が、未だ力を送り続けている、の手に微かにかかる。
その行動を咎める者も、疑問を投げかける者も、この場には一人たりとも存在しない。
弱いながらも、未だ確実に鼓動を刻む心臓の真上で淡く輝く双輪雪に、ぴたりと姫昌の視線が止まった。


……貴女のおかげです。この時間があるのは……」
「!!」


突然話の矛先が自分に向き、驚くの手元で双輪雪がちかちかと不安定に明滅する。
しかしすぐに光は安定し、その藍色の瞳はしっかりと姫昌を捉えた。
強い、しかし確かに優しげな光を湛えたその瞳を目を細めて見つめる姫昌は、静かに嘗ての言葉を繰り返す。


「運命に流されずにいれば、それが歴史の流れを変える大きな力となろう……」
「……はい」


――先程の自分の言葉が届いていたのか。
双輪雪で送った力が、糸が切れるまでの時間を引き延ばせたのか。
自分には、本当に、何か力と言えるものがあるのか――。

疑問に思っていた事に対する、全ての答え。
彼女を見つめる姫昌の微笑みの中に垣間見た気がして、はふわりと微笑した。


「有難う、姫昌さん……」
「礼を言うのは、私の方だよ……」


深い息と共に、ゆるやかに吐き出した言葉。
それに伴ってゆっくりと下ろされた瞼に、複数の揺れる瞳が集中する。


「困ったな……もう本当に何もする事がない……」


苦笑と共に漏れた言葉の後、耳が痛くなるほどの静寂がその場を包む。
寝台に深く沈みこむように見えた姫昌の姿に、場に居る誰もが、『最期』を意識した、その時。


「そうだな。私は幸せ者だ」


一言、周りの張り詰めた空気を、少しだけ緩める言葉を遺して。
深く皺が刻まれたその顔には、穏やかな表情を浮かべて。

紂王二十年仲秋―――西の大諸侯姫昌は、多くの人々が見守る中、その生涯に幕を降ろした――。










「……あれ? 私、こんなの……持ってたっけ……?」


西岐の城の瓦屋根の上に、ぺたんと腰を下ろした青い人影。
腰に付けた鞄から取り出したものを天に翳し、そのままぱたんと身体を後ろに倒す。
細長い筒状のそれは燃えるような夕陽を反射して、双輪雪に似た輝きを放つ。


「綺麗ー……。 ……吹けるかな?」





「おまえらおかしいよ!! おやじが死んだら『はい次』ってわけか!!?」


その頃、の寝転がるのと、反対側の同じ屋根の上で。
太公望と周公旦の現実的すぎる言葉に、姫発はやり場の無い怒りを爆発させていた。
しかし太公望は、激昂する姫発を静かに諭す。


「もう言うな、姫発……。人にはそれぞれの悲しみ方があるのだ。自分だけが悲しいと思ってはいかん。それに…… ……ん?」
「……?」


太公望が言葉を続けようとした、丁度その時。
彼らの耳に届いたのは、澄み渡る空に吸い込まれるような、綺麗で、どこか哀しい響きを持った……笛の音色。

じわじわと心に沁みる音色に誘われるように、姫発は屋根を更に上へと登る。
天辺まで辿り着いて下を見下ろしてみれば、彼が居るのと同じ屋根の反対側に、仰向けで横笛を奏でるの姿があった。


……ちゃん? これは……?」
「……魂……鎮め、の、唄…………、まさか覚えて……!?」
「……?」


遺された者の傷を優しく癒すような、死者の魂を天国に送り届けるような。
その何とも言えない音色に誘われて、西岐に一陣の風が吹いた――。








「……ちゃん?」
「あれ、発っちゃん。……気付かなかった。いつから居たの?」
「ちょっと前から」


冷静さを取り戻した姫発がに声を掛けたのは、空が薄紫に染まりだした頃。
は未だ屋根の上で西岐を眺め、時折笛を奏でていた。
反射する光の色が変わっても、その輝きは双輪雪と同じ色のまま。


「……綺麗な曲だったぜ。笛吹けたなんて初耳だぞ?」
「そう? ありがと。でも実はね、さっき初めて吹いたの。笛」
「マジでか!?」
「マジで。覚え無いんだけど、鞄に入ってたから」


姫発は屋根の頂上を跨ぐと、の横まで降りて腰を下ろす。
その視線は青みがかった横笛からに移動し、最後に空の彼方へと向いた。


「……親父、も……最後に良いモン聞かせて貰って、喜んでるんじゃねぇ?」
「だと、いいけどね」


ふわり、と音が聞こえそうなほどの、柔らかい微笑と共に呟く
どこか寂しげな表情はしているが、それ以外は至って普通に見える。

そんなの横顔を、姫発はまじまじと見つめる。
遠慮の無い視線に、はきょとんとした表情で小首を傾げた。


「……どしたの発っちゃん。私の顔に何か付いてる?」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
「ん?」


見事にかちりとかち合った視線。
藍色の瞳に真正面から捕まった姫発は、言葉を濁しつつも眼を逸らせない。
暫くごにょごにょと誤魔化すような言葉にならない言葉を呟いていた姫発だが、やがて観念したかのように、小さく拳を握り締めた。


「…………ちゃん、は……」
「……?」


だいぶ温度の下がってきた空気を、肺いっぱいに吸い込む。
吸いすぎた分を小さく吐き出し、相変わらず自分を捉えたままの藍色を見つめ返す。
そうして姫発が、すっかり重くなった口を開いた、まさにその瞬間。


――! んなトコに居たんかい! スースが呼んでたさよ? ……っと、もしかして邪魔したさ?」

「あ、天化」
「………」


姫発の言葉を遮ったのは、地上から二人を見上げている天化。
ニイッ、と、悪戯な笑みを浮かべている所を見ると、どうやら確信犯。


「あー……ごめんね発っちゃん、話の途中で」
「いや……大したことじゃねぇし……今回はいーや」
「……そう?」


は軽く項垂れる姫発の言葉に小首を傾げたが、話が続かないと分かるとすぐに屋根を蹴り、太公望の元へと向かった。





一方、残された姫発と天化は。


「あーた、油断も隙も無ぇさね」
「ったく……相変わらず姉バカだな、お前」
「うるさいさ」
「っはー……でもちょっと助かったぜ……」
「……は?」
「目が、逸らせねぇんだもんな」
「あー……」


ぽつりと呟き、姫発は大きく空を仰ぐ。
つられて天化も見上げてみれば、そこに広がっていたのは、たった今話題にしていたのと同じ、綺麗な藍色だった。




<第39話・終>

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