――それは、何の前触れも無く。








nightmare
 ―太公望の悲惨な一日








――西岐の城の、豊邑を良く見渡せる一室。
執務室、という札の掛かったその部屋で、周の軍師・太公望は、大量の巻物と向き合っていた。


彼の目の前には、大きい山がひとつと、小さい山がひとつ。
それらを見比べ、太公望は大きな溜息をひとつ。


「はぁぁ…ようやくひと段落したわ…やはり溜め込むと辛いのぅ…」


広い部屋に響くのは、彼の呟きだけ。
そんな静寂を破ったのは、彼のよく知る、明るいソプラノ。


「お疲れ〜、望ちゃん!」
「…!」


声の主が見えるよう、太公望は巻物の山を机の脇に退かす。
机の向こうに現れたのは、予想通りの人物だった。


――周軍の紅一点・
普段なら兵士の訓練中である彼女の登場に、太公望は小首を傾げる。

…自分と違って、は仕事をサボる事など有り得ないのだが。


、おぬし…仕事はどうした?」
「望ちゃんに言われたくないわね…。今日は訓練休みなの! …も〜、せっかく差し入れ持ってきてあげたのに」


軽口を叩きながらも、は笑みを浮かべながら、腰に付けた鞄を開ける。
漂ってきた甘い香りに、太公望の目が輝きだした。


「…お! この香りは井村屋のアンマン!! くれるのか!?」
「うん! 私が食べたかったんだけど、皆も欲しいかなって思って結構沢山買って来たから」


にっ、と太公望に笑ってみせると、は鞄の中をごそごそと探り出す。
大して大きくも無い、青いウエストポーチ。
その口から覗いて見えるのは、色とりどりの巾着袋。


「…のぅ…前々から思っとったんだが…」
「ん〜? 何?? …あ、あったあった」


…ドサッ!


太公望が言葉を続ける前に、は目的の物を鞄から取り出した。
巻物の山と山の間に置かれたその紙袋は、少なくとも小さい山より大きい。


…一体幾つ入っているのやら。
自他共に認める甘党の太公望も、流石に驚きを隠せない様子。


「…本当に結構な量だのう……」
「皆の分、って思うとね…はい、コレ望ちゃんの分」
「おぉ!! 済まぬな!」
「いえいえ。…んじゃ私もいただきまーす!」


目の前に差し出されたアンマンに、太公望は疑問や驚きは一先ず忘れて手を伸ばした。
ひとつ、またひとつ、と、結構なハイスピードで平らげていく。


三つ目に差し掛かった頃、未だ一つ目のアンマンを味わっているに、太公望は漸く先程の続きを切り出した。


「のう、その鞄…見た目よりだいぶ沢山物が入るような気がするのだが…一体どうなっておるんだ!?」
「ん? これ?」


――太公望の疑問も無理は無い。

先程取り出したアンマンの袋の大きさは、この鞄を軽く上回っている。
その上、彼女の身長ほどの長さをもつ箒型宝貝・煽鉾華も、いつもこの鞄から出てくる。


まじまじと鞄を見つめる太公望に、はその中から一つの巾着袋を取り出して見せた。


「…この巾着ね、太乙に貰った“携帯用収納宝貝”っていうの。これがいっぱい入ってるでしょ? この鞄」
「うむ…」
「見た目は小さい巾着袋なんだけど、コレ、実際には巻物100本以上入れても余裕なの。凄いでしょ〜?しかも重さ調節もできるから荷物の割に軽いし」


そう言うと、は一つの巾着を太公望に手渡す。
見た目通りの重さの、その中身を覗いて見れば、中には大量のガラス瓶。

――実際より、明らかに軽く、中も広い。


「ほー…確かに便利だのぅ!!」


感嘆の声をあげる太公望。
…その顔には、純粋に性能に驚いている以外の表情も浮かんでいる。


「(食糧庫から桃を失敬する時とか……!!)」


に見えないように、太公望は、ニヤッ、と口端を上げる。
思わず「今度太乙に頼んでみるか…」と小さく呟くと、育ての親の名前にが反応した。


「あ、そーいえばさ、太乙で思い出したんだけど…」
「むう?」


の言葉の続きを待ちつつ、太公望が再びアンマンに口を付けたその時。
執務室の扉が、バタン、という大きな音を立てて開かれた。




――突然の音に驚いた二人が、扉を振り返るのより早く。


「「―――!!!」」




「…ぅわっ!!」
「なっ………!!!」


は背中に二つの衝撃を。
太公望は、の背中越しに…大量の冷気を感じた。


! 大丈夫だとは思っていたが…心配で心配でスポーツに身が入らなかったよ!!」
「…コーチ!?」

「私も宝貝作りがどうも捗らなくてね…」
「太乙!」

「全く仕方ないねぇ…が居ないと私一人でこの二人の面倒を見ないといけないじゃないか…」
「雲ちゃん!!」

…久しく手合わせしていないな…。どうだ? 後で一試合」
「玉先生も!?」

「よぉっ!!」
「……元気そうだな」
「また背が伸びたか?」
「HAHAHA!抜かれるのも時間の問題じゃねぇか!?」
「あのバカ弟子に絡まれてはおらぬか?」
! 後でボクと遊びに行くでちゅ!!」
「おい…皆、ちょっと落ち着けよ?」
「フォッフォッフォッ…」

「……みんな!!」




漸く、しっかりと、訪問者達を見てみれば。
――崑崙幹部たちが、見事に勢揃いしていた。


「…、これは……」
「…さっき、『仙人界から何人か幹部が降りてくるらしいよ』って言いかけててさ…」


これには、流石の太公望も驚きを隠せない。
しかも、自分に向く視線にだけ、少々棘があるのは気のせいではない。

一方のは妙に納得顔で、「だから気配気付けなかったのね…」と苦笑い。


「…にしても、雲ちゃんはともかく…まさか十二仙直々に来るとはね…しかも全員」


呆れたような口調だが、の顔には笑みが浮かんでいる。
育ての親たちとの久々の再会、しかも全員勢揃い。嬉しくないはずはない。
全員の顔を、順々にしっかりと見つめる。


そこに一番後ろから、スッ、と出てきた青い影。


「…久しぶり、。元気そうで安心したよ」


にっこり。

効果音の付きそうな程の笑顔。
勿論、裏に黒さの無い、本物の笑顔。


そこで言葉を切った青い人物は、その視線をゆっくりと横に動かす。
…そして、暫しの沈黙の後。


「……それと…望ちゃんも」


ぞくっ…




――その場の温度が、一気に2度程下がった。


温度を下げた張本人は涼しい顔で、足音も無く、一歩一歩太公望に近づいていく。
その背後に、隠そうという努力を全く見せない、どす黒いオーラを纏って。


太公望は体中に大量の冷や汗をかいているが、縫い止められたかのようにその場に留まっている。
物凄い嫌な予感を感じ、助けを乞おうと横に視線をやれば、そこに居たはずのの姿が……無い。


――十二仙に抜かりは無い。


は既に道徳と太乙に、部屋の外に誘導されていた。

『今後に関する重要な話し合いをするから』とでも言われたに違いない。
今頃、ほんの少しの疑問を感じながら、天祥の相手でもしているのだろう。


勿論、この部屋の温度が下がったのは、が完全に姿を消してからに決まっている。


助けは、望めないようだ――。





「ねぇ、望ちゃん…」


青い人物が、穏やかな声を発した。
天使の微笑みを浮かべ、太公望の瞳をこれでもかというほど真っ直ぐ見つめる、その人物。


「……ふ、普賢…」


太公望の絞り出すような声が、静かな部屋に虚しく響いた。




――十二仙が一人にして、の育ての親の一人。
九功山に洞府を構える仙人…普賢真人。
太公望の同期でもあるその仙人は、『温厚』という言葉を絵にしたような人物だ。

…普段は。


     残りカウント…3


普賢はあくまで穏やかに、静かに、笑みを絶やさず言葉を続ける。


「望ちゃん…僕は争い事が嫌いなんだ。まずは話し合いをしよう?」
「な、な…なっ、何を突然!? というかおぬしら、十二仙が揃いも揃ってどうしたのだ!? 崑崙が手薄になってしまうではないか!!」


そう言って、太公望はびしっと人差し指を十二仙に向けるが、彼らの顔色に変化は無い。

そして普賢は、じりっ、と、また一歩、太公望に歩み寄る。
太公望はいつもの頭の狡さはどこへやら、冷や汗だらだらで慌てることしかできない。

そんな太公望の焦り具合と、自分の提案に答えを貰えなかったことを見て、普賢は。


「…僕の言ったこと、聞いてた……?」


     残りカウント…2


にっこり。

その絶対零度の微笑みは、自分の問いへの答え以外の発言を許さない証。
小声でぼそっと呟いた第一警告は、見事に太公望の頭に響いた。


「…わ、わ、分かったわい…して普賢、話し合い、とは……何、の…ことだ…?」


とりあえず絶対服従。普賢の言う方向へ話を進める太公望。
しかし、当の普賢様は、その答えがお気に召さなかったようで。


「望ちゃん、まさか…しらばっくれる気…?」


     残りカウント…1


今度の一言には、笑顔のオプションは付いていなかった。
笑顔が消えたことが、第二の警告。




――思い当たることが、無い訳では無い。
しかし、あれは断じて自分のせいではない。

…「太公望の手伝いをしに行ったせいだ」と言われてしまえば、それまでだが。

本人に聞けば、すぐ分かることなのに。
当の本人は、既にこの場には居ない。

…というか、彼らによって外に誘導されているのだから、その手は最初から使うことを許されていないのだ。


太公望の背筋に、悪寒が走った――。




「望ちゃん…?」




こんな状況でも、さらに畳み掛けてくる普賢。
太公望との距離は、既に1メートルも無い。

心なしか、十二仙との距離も、縮まっている気がする。




――遺された発言権は、おそらく、あと一回。

太公望の中で、何かが切れた。


「……ええい! あれはわしのせいではないわ!! おぬしらだって分かっておるだろう!?」


もう、半ばヤケクソである。
再びその人差し指で、十二仙をびしびしと差していく。


普賢! おぬし、こんな追い詰め方をしおって! 本当に争いごとが嫌いなのか!? この偽聖人!!」

道徳! これはおぬしのスポーツマンシップとやらに反せんのか!?」

太乙! おぬし、相手がナタクではなくて、自分が居るのが地上だと強気にでるのか!?」


「それに…!!」
「おぬしらは…!!」
「だいたい…!!」
「いい加減に…!!」


――ついでに、ここぞとばかりに、前々から言いたかった小言を吐きながら。

毒を喰らわば皿まで、である。




その小言が十二仙全員分…いや、雲中子も含めて十三人分。
言い終わって、肩で息をしはじめた時が、本当のnightmare…悪夢のはじまりだった。


「…言いたいことはそれだけかい?」

雲中子は、両手に毒々しい色の液体が入った試験管を持って。


「あの子は、未だ嫁入り前なのに…」

太乙は、見たことも無い宝貝を幾つも構え。


「…悪く思うなよ、太公望」

玉鼎まで、竹刀のような刀を携えて。
…宝貝ではないだけ救いようがあるが、そんなことを言っている場合ではない。




じわじわと太公望ににじりよる十二仙+α。
そんな中、ひとりその場から動かない人物が、最期のとどめを刺した。


その頬に光の粒を煌めかせ、太公望を振り返りながら、最期の一言。


「分かり合えないって……悲しいことだね」


     残りカウント…0


――それが、GOサイン。




「…ぎゃあああぁああぁあああぁあ!!!!」




「残念だよ、望ちゃん…」


断末魔が轟く中、その静かな一言が、妙に部屋に響いた……。








「…ちゃん、望ちゃん、望ちゃん??」


…がばっ!!!


「…っくりした………大丈夫?」
!? お、お、おぬし…」


――次に、太公望が、意識を取り戻した時。

自分が居るのは、執務室の机の前。
きちんと椅子に座って、巻物の山を前にしている。

そして目の前に居るのは、事の元凶――といっても、ある意味被害者でもある――
その整った顔には、疑問の表情が浮かんでいる。
左の頬には、消える事の無い、一本のくっきりとした傷跡。

その右手には、大きな袋の包みを抱えていて。


「……???」
「…どしたの望ちゃん。凄い汗だよ? …ってか、意識、ある?」


反応の無い太公望の目の前で、ふるふると手を振ってみる
それに気付いた太公望は、を見て、彼女が抱える包みを見て、自分の居る執務室を見渡す。


広い部屋に居るのは、自分との二人だけ。
そして、部屋中に、何かの甘い香りが漂っている。


「アンマン買ってきたんだけど…食べれる?」


ほら、と、湯気を立てるアンマンを差し出す
太公望はほぼ無意識で受け取り、一口食べてみる。


――口中に広がる甘さによって、太公望は漸く正気を取り戻した。


「…夢であったか……」
「魘されてたね、確かに」


太公望が落ち着いたのを見て、自分もアンマンに手を伸ばしながら、が呟く。
そんなの言葉に、太公望はゆっくりと彼女を見上げる。


「のう…今更なのだが……その頬の傷は…」
「ん? 西岐に来る途中で敵に遭遇しちゃって、封神直前に油断してやられた…って、言わなかったっけ?」
「い、いや…そうだ。確かに、そうであったな…」


はあぁ、と、大きく溜息を吐く太公望。

――只の、夢だったのだ。




安心した太公望はペースを上げて、あっという間に一つ目のアンマンを平らげる。

しかし、二つ目に手を伸ばしたとき。
太公望は、夢との違いに気付いてしまった…。


「の、のう…これは…?」
「あ、忘れてた! 元々コレ届けに来たのに!!」


机の上に下ろされたアンマンの袋の横には、一本の青い巻物。
はい、と手渡されたそれは、どうやら宛雛が届けてくれた、仙人界から届けられた物らしい。


嫌な予感がする。
しかも、青だ。


恐る恐る紐を解き、中身を見た太公望。
その顔が、みるみるうちに、その巻物と同じ色になる。








――悪夢が現実になる日は、そう遠くないのかもしれない。




<end>


あとがき