「ええっ!? 本当ですか!?」
「…ということは……元始天尊さま、完全に忘れてるってことだね…」
「「……どうしよう…」」
「…?」
リトル・プリンセス
――仙人界は崑崙山脈・九功山。
そこに洞府を構える仙人・普賢真人は、朝から難問に直面していた。
『仙人』と言っても、彼は未だ例外的に弟子を取っていない。
しかし今、そんな彼の正面に、弟子ではない、ちいさなちいさな女道士がひとり。
その傍らには、困り顔の白い鶴…白鶴童子。
「普賢真人さま、今日の会議というのは…十二仙だけではなく…」
「うん。竜吉公主と雲中子も招集されてるはずだよ」
「そう…ですか……。皆さん居ないってことですね…」
普賢の返答に、益々顔色を白くする白鶴。
そんな白鶴の様子を見て、横に立つ幼女の顔に、不安気な表情が浮かぶ。
「はくつる…どうしたの? のせいでこまってるの?」
「え、いや、そうじゃなくて…」
彼女はうっすらと瞳を湿らせ、白鶴の翼を握り締め、彼の表情を窺う。
焦る白鶴と半泣きの幼女を見て、普賢は苦笑しつつ、屈んで幼女と視線を合わせ、優しく話しかける。
「のせいじゃないよ。全部元始天尊さまのせいだから」
「げんしの…じーちゃんの……?」
「そうだよ。は何も悪くないから、泣かないで?」
その幼女…の頭に手を乗せ、あやすように軽く数回叩く普賢。
彼女が徐々に落ち着いていくのを確認しつつ、普賢は小さく嘆息した。
――朝も早くから、普賢に降りかかった難問。
この幼女…は、特定の師を持たない道士である。
表面上は、その潜在能力の高さから、元始天尊の直弟子ということになっているが。
しかし彼女はまだ3歳。将来どういう成長を見せるかは、未だ予測できない。
そこで、彼女が崑崙に来てからここ3ヶ月間、各々タイプの違う崑崙幹部達に、順番に面倒を見て貰う生活を続けている。
そして今日は、普賢のもとで修行する日。
…だったはず、なのだが。
今日は元始天尊が招集をかけた、幹部会議が開かれる日だったのである。
のスケジュールを管理しているのは、一応、仮ではあるが師匠である、元始天尊の仕事。
その元始天尊に言われ、白鶴がを九功山に連れて来てみれば、普賢は今から会議だという。
これは、完全に、元始天尊のミスである――。
「…でも……どうしようね?」
――はっきり言ってしまえば、今日、の面倒を見れる人が居ないのだ。
を連れて来た白鶴も、元始天尊の秘書のようなものなので、会議には出席しなければならない。
誰か、今日の会議に出ない人で、の面倒を見れる人は居ないのか…。
なるべくに不安を与えないよう、明るめの声で白鶴に問う普賢。
しかし白鶴は、事の責任を感じているのか、項垂れたまま弱々しく首を振ることしかできない。
「みんな、いないの…? ふげんも…どーとくも、たいいつも、うんちゃんも?」
そんな白鶴を見て、普賢を見上げて問う。
一旦収まったはずの不安の色が、その顔に再び戻っていく。
「うーん…他にが会った事ある人で、会議に出ない人………
…あ」
その声に反応したと白鶴が顔を上げれば、そこには天使の微笑みを浮かべる普賢がいた。
「…で、わしのところに来たというわけか……」
「うん。そういうこと」
――場所は変わって、崑崙山に程近い浮岩。
ニコニコと微笑む普賢、心配そうに状況を見守る白鶴、白鶴の翼を握り締める。
その正面で形だけの瞑想をしていたのは、一応の“兄弟子”とも言える人物だった。
…元始天尊の一番弟子・太公望。
「たった一度だけでも、会った事ある人のほうがいいと思ってね。望ちゃん、会議には出ないでしょ?」
「うむ…まぁ…しかしのぅ……」
自分には子供の面倒など見れない。
会った事があると言っても、ちらっと顔を見たか見なかったかという程度ではないか。
そう顔に書いてある太公望を見て、普賢はには見えないように嘆息すると、輝かしいばかりの笑みを浮かべ、静かに口を開きかける。
それを遮ったのは、普賢の後ろから響いた高い声。
「…ぼう、ちゃん?」
声と共に一歩前に飛び出して来たのは、話題の中心人物・。
ぴょこっ、と太公望と普賢の間に入ると、じいっと太公望を見上げる。
大きな瞳で見上げられ、太公望が言葉を発せないでいると、は突然、満面の笑みを浮かべた。
「です! よろしくね!!」
ニコニコと愛想よく笑うと、その後ろから眩しい笑顔と無言のプレッシャーを向けてくる普賢。
――これには、太公望もお手上げだったという。
「…さて、どーするかのう…面倒を見ると言っても、何をすればよいのやら……」
普賢と白鶴が会議へと向かってから、太公望は再び座り込んでと視線を合わせる。
…適当に遊ばせておこうかとも考えたが、それでは後が怖い。
「おぬし、普段は何をしておるのだ?」
「えーっとー…ふげんにべんきょーおしえてもらってー、どーとくと『すぽーつ』してー、たいいつとおえかきしてー、うんちゃんと『じっけん』するの!あとねー……」
「………」
「(勉強に絵描きに実験…そんなモン、わしには出来んわ…。後は『スポーツ』か…)」
の話を聞きつつ、太公望は一人悶々と考え込む。
…道徳の言う所の『スポーツ』は無理だが、相手は所詮三歳児。まぁ何とかなるかもしれない。
「…そうか。では、今日はわしがおぬしと『スポーツ』してやろーかのう!」
「(これなら修行サボって堂々とブラブラできそうだしな…)」
にいっ、と笑い、の頭に手を乗せて言う太公望。
は彼の本音と建前など露知らず、元気よく「うん!」と返事を返す。
「じゃあ、かくれんぼやりたい!!」
「かくれんぼ? うーむ…」
「(じっとしていられる分、他より楽だが…目の届かない所にやるのは…何かあったら恐ろしいしのう…)」
の提案に、太公望は唸りながら損得勘定。
なかなかオッケーが出ないのを見て、は第二希望を告げる。
「それなら、おにごっこはー?」
「鬼ごっこか…」
「(追うにしろ逃げるにしろ走らねばならぬが…目は届く。走ると言っても相手は三歳児だしのう…)」
自分が多少疲れるのをとるか、何かあった時に黒普賢の降臨をとるか。
色々と考えを巡らせ、天秤にかける。
「…そーだのう…。わしも最近運動不足だしな。つき合ってやるわい」
「やったー!! ありがとーぼうちゃん!」
「但し、わしが鬼で、おぬしが逃げるのだ。よいな?」
「はーい!」
「(これなら常に目の届く前方に置いておけるし、何より追う方なら適度に休めるしのう!)」
太公望の思惑はともかくとして、『スポーツ』の種目は鬼ごっこに決定。
――散々考えて辿りついたことが自分の首を絞めるとは、この時の太公望は知る由も無かった。
「では、範囲はこの崑崙山の中だけだ。会議室の周りはなるべく近づかないようにせいよ?」
「はーい!」
崑崙山脈で一番大きい山、崑崙山の中腹あたり。
と太公望の長い長い鬼ごっこは、ここで今、幕を開けようとしていた。
「じゃーぼうちゃん、よーいドン、で、おいかけてきてね!」
「ん? 普通は十まで数えるものではないか」
の言葉に首を傾げる太公望。
彼が言葉を続けるより前に、は再び彼を見上げ、満面の笑みを見せ、その小さな口を大きく開いた。
「よーい……ドン!!」
「!」
を見下ろす太公望は、前方から一陣の風を感じる。
次の瞬間、その場には呆然と立ち尽くす太公望だけが残されていた――。
「なっ……!!! こ、こら待て!!! おぬし、こんなに速いとは聞いておらぬぞ―――!!!」
――長い長い、鬼ごっこの……始まり、始まり。
「はぁ…はぁ……詐欺だ。絶対詐欺だ…。あやつ、本当に三歳児か!? 道徳が少し手を抜けば、十分張り合える速さではないか!」
太公望は、混乱する頭を整理しながら、ひたすら走っていた。
追いかける前に、十数えなくて良い訳だ。
所詮相手は三歳児、と思っていた、つい十分程前の自分に腹が立つ。
の瞬発力とスピードは尋常ではない。
流石、崑崙幹部が総出で可愛がっているだけのことはある。
…普段もどうだか分からないが、近頃修行をサボりすぎて運動不足気味の太公望が敵う相手では無かった。
「…感心しておる場合ではないわ! 早く見つけねば…!!」
とりあえず、の走り去った方向へと走る走る。
気付いてみれば、崑崙山のだいぶ下部まで降りてきていた。
「はぁ…はぁ……。こ…こは……確か…」
行き止まりにぶち当たり、太公望は一旦停止。
膝に手をつき肩で息をしつつ、目の前の、半開きになっている大きな扉を見上げる。
…物凄く、嫌な予感がする。
中に確かな人の気配を感じ、静かに音を立てぬよう、太公望は扉を押した。
開けた視野一面に広がるのは、綺麗に整列している、巨大な丸いロボットたち。
一番奥にあるロボットの足元には、小さな人影がひとつ。
――やっぱり、だ。
ちょろちょろと足元を走り回っているは徐々にその速さを落とし、ロボットの正面で停止。
じいっ、とその巨体のてっぺんを見上げていると思えば、ぱっ、と再び動き出す。
向かった先にあったのは、大きな大きな脚立――。
「…こ、こここここらっ!! そこはいかん!!」
「う? …あ!ぼうちゃん!!」
が脚立に足を掛けた瞬間、太公望は我に返っての元へ猛ダッシュ。
操縦席に乗られては堪らない、とばかりに、必死の形相でを止めにかかる。
…しかし、この小さなお姫様は、本気で向かってくる太公望を見て。
「きゃはははっ!! ぼーちゃんがほんきだしたー!! たーのしー!!!」
「これっっ!! 待てえぇぇえぇ!!!」
既に数段昇っていた脚立から飛び降り、迫ってくる太公望から楽しげに逃げ出す。
その速さは未だ落ちる様子を見せず、二人はぐるぐると黄巾力士の足の間を走り回る。
そしては、再び扉の外の世界へ。
「おーにさーんこっちらー!!」
「………はぁ…」
ぱたぱたと階段を昇る小さな足音を聞きながら、荒い息の太公望は部屋の扉を思い切り閉めた。
「ひぃ…ひぃ……一番、下まで、降りたと、思ったら…。今度は…一番上かい……」
前方から響く小さな足音を頼りに、太公望は壁に手を付きながら階段を昇る。
いつになく静かな崑崙山に反響するぱたぱたという音は、響いては止み、響いては止みを繰り返す。
まるで、太公望を導くように。
「っはー……」
「あ! ぼうちゃんやっときたー!」
無心で天に伸びる階段を昇り続けて到達した先は、崑崙山の頂上。
だだっ広い空間の中央には、小さな台座。
台座から数メートルの場所には、未だ元気の有り余っているの姿もあった。
「ねーぼうちゃん、これ、なにかなぁ…?」
「ふぅ…ふぅ……何だ、今度は…」
仰け反るように天を仰ぎ、足りなくなった酸素を補っていた太公望の耳に、無邪気な声が届く。
再びやってきた嫌な予感を感じつつ、声のする方を見てみれば。
…は興味津々といった様子で、しかし慎重に、徐々に台座に近づいていた。
「こら!! そういうワケの分からん物に手を出すでない!!!」
「っきゃ――!! ぼーちゃんがおこったー!!」
今までの疲れはどこへやら。
太公望は本気でを追いかけ、は楽しげな声を上げながら逃げ回る。
ぐるぐると台座の周りを何周かすると、は階段の方へと向かった。
「おーにさーんこっちらー! てのなるほうへー!!」
「………」
きゃははは…という無邪気な歓声が、徐々に遠ざかっていく。
太公望は、鬼ごっこという遊びを思いついた人間を密かに恨んだ。
――それからも、彼らの攻防は延々と続いて。
昇っていたはずの太陽は、既に半分が地平線に沈んでいる。
「ふいー…ったく、もう足がガクガクだ…今度はどこに隠れておるやら…」
流石に太公望が走れなくなってきたのを見てか、つい先程から、鬼ごっこは隠れ鬼に摩り替わっていた。
見つかっては走って逃げ、適当な所に身を潜め、また見つかっては逃げ…。
そんなこんなを繰り返し、崑崙山中を駆け巡った二人。
「…お?」
の向かった方向へと、ゆっくりと歩みを進めていた太公望。
いつの間にか、行くなと言ったはずの会議室のあるフロアに入っていた。
そんなに軽く嘆息しつつ、太公望は尚も歩みを進める。
人が隠れられそうな所を順番に見つつ歩いていると、大きな扉に行く手を阻まれた。
「…行き止まりではないか…」
は毎回、割と見つけやすい所に隠れてくれている。
ここに着くまで、そういう場所は全て見てきたはずだが、の姿は無かった。
「ま…まずい……」
既に血の気の無い太公望の顔が、益々真っ青になっていく。
に何かあったら…崑崙幹部全員を敵に回すと言っても過言では無いのだ。
…そんな時、微かに聞こえてきた、小さな寝息。
「……?」
その小さな小さな音を辿って、太公望は視線を動かす。
辿りついた先に居たのは、扉の前にある銅像の後ろで、小さくなって眠るだった。
「こ…んな近くに、おったのか……」
はあぁ…と安堵の溜息を漏らし、屈んで見つめる太公望。
そこで漸く、今自分達が居る場所に気が付いた。
「…会議室の前、か…成程のう……」
太公望の行く手を阻んでいたのは、幹部の会議室に続く扉だった。
最終的にここに来てしまったの穏やかな寝顔を見下ろしつつ、太公望は静かに独りごちる。
「ったく、可愛い奴め…」
どんなに能力が傑出していても、どんなに明るく振舞っていても、未だはたったの三歳。
初めての歳相応の様子を見れた太公望の顔には、優しい笑みが浮かんでいた。
「…役得だ。あやつらには教えてやるもんか」
「むにゅぅ…」
太公望は起きる様子の無いを背負い、会議室の前を後にする。
静まり返った廊下に響く、一人分の足音と一人分の寝息。
「ぼー…ちゃ…、ありがとー……」
そこに小さく呟かれた寝言は、太公望の耳以外に響く事は無かった。
<end>
★あとがき