「やだ!」
「そうは言うけどねぇ、これは……」
「いーや! ぜったいいや!」
「……なぁ雲中子、他に方法は……」
「そうやって簡単に甘やかすのは良くないよ、道徳」
「うっ……」










リトル・エスケープ










――崑崙山脈、終南山が玉柱洞。

泣く子も黙る“スプーキー”、変人仙人・雲中子の根城から響く、幼い子供の悲鳴にも似た声。
泣きはしないが黙りもしないその少女、は、洞府の扉に齧り付いたまま、一向に中に入ろうとしない。
頑として譲らないを見て、雲中子はその矛先を口を挟んだ保護者に向けた。


「道徳、ちゃんと言いくるめてから来いって言ったじゃないか」
「言いくるめる、って、お前な……。こっちも色々あったんだよ……」
「じゃあ説得。もしくは不安の軽減。まったく、どんな説明をしたら、この子が此処まで怖がるかねぇ……」
「注射器構えたまま出てくる奴がそれを言うか!!」


の本日の保護者である道徳は、には服の裾を縋るように掴まれ、雲中子にはちらちらと厭味の篭った視線を向けられ。
完全に板挟み状態の彼は、雲中子をちらりと見やると、居心地悪そうに小さく唸る。


仙人界でも稀に見る、雲ひとつ無い晴天。
予防注射日和、と言えるかは怪しいが、何はともあれ、本日は、崑崙山・幼児対象一斉予防注射デー。

注射執行者にしてこの洞府の主・雲中子は、子供の天敵・注射器を片手に持ったまま、うっすらと目に涙を浮かべたと対峙する。


、こんなもの一瞬だよ」
「やだったらやだ! げんきだもん!」
「元気だからするんだよ」
「なんで!」
「……だから、道徳が説明したんだろう? よっぽど変な説明でもされたのかい?」
「「………」」


雲中子の何気ない言葉に、二人は揃って黙り込む。
その反応を見てか再び自分の方を向いた厭味の篭った視線に、道徳はゆるゆると目を逸らした。


「(あいつらの余計な説明が、って、弁解したところでなぁ……)」


――彼女がここまで怯えている原因は厳密には彼には無いのだが、それを逐一説明したところで、結局は保護者の責任だと一刀両断されるのが関の山。
に恐怖心と間違った知識を植え付けた面々に内心舌打ちしつつ、道徳は力無く首を振った。

で、ここに到着するまでに出会った別の保護者達の言葉を脳内で反芻し、ぶるぶると大きく首を振る。


「やだってばやだ! それするなら、、うんちゃんとどーとくと『ぜっこう』するからね!」
「「っ!!!?」」


……彼女の覚えたての単語は、彼女の予想を遥かに上回る威力を発した。

思わぬ言葉にぴしりと凍りついた仙人ふたり。
未だ道士見習いとはいえ、道士として見ても桁外れの俊足を持つは、これ幸いと脱兎のごとく駆け出した。

――瞬きするほどの時間のあと、道徳と雲中子が我に返ったとき、彼女の姿は既に無し。










「ぼうちゃんぼうちゃんぼーちゃぁぁぁぁんっ!!!!」
「……どーした、騒々しいのう」


当ても無く終南山から逃げ出したが見つけたのは、珍しくも真面目に座禅を組む太公望。
は彼の膝上によじよじと登ると、すとんと腰を落ち着けた。


ね、ここにはいないからね!」
「は?」
「かくれるの! ぼーちゃん、かくまって!」
「はぁ……匿うと言うてものう……」


眉根を寄せる太公望にしーっと人差し指を立てると、彼女は鞄からおもむろに林檎を取り出す。
見た目は至って普通のそれを一齧りすると、の足はすうっと透明に変化した。


「なっ!!!?」
「うんちゃんとくせい『とーめいリンゴ』! すごいでしょ」


あんぐりと口を開ける太公望に構わず、はさらに林檎を口にする。
しゃりしゃりと小気味良い音を立てつつ半分ほど食べてしまえば、の身体はすっかりに透明になってしまった。


「な……なんだこれは!」
「だからぁ、とーめいリンゴだよ。しっ、ぼーちゃん、だまっててね」


掛けられた体重も響く声も変わらないが、太公望がどれだけ目を凝らしても、の姿は全く見えない。
彼女はそれ以来口を噤むと、ころんと猫のように太公望の膝の上に丸まった。

――隠れんぼでもしているのだろう、と判断した太公望は、足元から響く控えめな呼吸音に耳を済ませつつ、再び瞑想に戻った。








「……いー加減、足が痺れてきたんだがな」


が太公望の元へと駆け込んできてから、一時間が経過した。

相変わらず何も無いように見える太公望の膝上から漏れる、すうすうという小さな寝息。
寝返りひとつ打たないを降ろすに降ろせず、太公望は半ば途方に暮れていた。


「ったく、相手が誰だか知らんが、早く見つけに来いっつーに」
「自分を棚に上げてそれを言うかい?」
「!」


自身の膝を見つめる太公望の頭上に、すっと陰が差す。
振り返った彼の背後に居たのは、涼しい顔をした雲中子と、何やら疲労困憊の道徳。
体力馬鹿と変人研究者の対照的な様子に太公望は内心首を傾げるも、自身の膝に掛かる重みに何となく経緯を察した。


「おぬしらか……」
「ってことは、やっぱり……そこにが、居る、んだな……?」
「へぇ、今回の試作品は持続時間が伸びた、か……」
「……おい、雲中子、まさか……」
「なんだい?」
「………や、いい……」


疲れた様子でがっくりと肩を落とす道徳を後目に、雲中子はすたすたと太公望の正面へと回る。
おもむろに取り出したスプレーを太公望の膝に向かって軽く噴射すれば、目に見えない霧が晴れたように、丸まって眠るが姿を現した。

ぽかんとする太公望と道徳が目を瞬かせる間に、雲中子はスプレーを仕舞い、手にしたメモ帳を開いてさらさらと筆を走らせぱたんと閉じ
ると、今度はさも当たり前のように懐から注射器を取り出す。
屈みこんでの腕を取る雲中子に二人が気付いたとき、彼の作業は既に終わっていた。


「……なんだ、すんなり終わったねぇ。次回からは寝かしつけてからにしようか」
「う、雲中子、おぬし今、何を……?」
「予防注射だよ。キミもやっとくかい? 幼児用だけど」
「断固拒否する!」


注射器を構えてニヤリと笑う雲中子に、太公望は声を上擦らせて両手を挙げる。
と、その時、彼がびくりと動いたことで目が覚めたか、が小さく声を漏らした。


「んー……あれ、ぼう、ちゃん?」
「お」
「……どーとく?」
「うん?」
「うんちゃんも、いる……」
「ああ、おはよう


完全に開ききっていない両眼を擦りつつ、はむくりと起き上がる。

彼女の眼前で、ひらひらと手を振る太公望。
寝起きで覚束ないを、がっしりとした腕で支える道徳。
しれっと注射器を仕舞いつつ、片手を挙げて答える雲中子。

自分を上から覗き込む三人の大人をその藍色の双眸に順番に写すと、はふにゃりと笑った。


「えへへー、おはよ」
「「「………」」」


――警戒心の無いまっさらな笑顔を向けられた大人三人の胸を、ぐさりと妙な罪悪感が刺した。

その後、予防注射がカプセル投薬に変わった理由と、雲中子が『透明林檎』を作らなくなった理由を、は知らない。




<end>




あとがき