それは、封神計画が始まるずっと前の、ある日のこと。
玉鼎真人の洞府にお使いに行ったは、帰り際に一綴じの紙束を手渡された。


「……人間界のものらしい。文字の練習をするのに丁度良いだろう?」
「へぇ〜! ありがと、ぎょくせんせー!」










リトル・ダイアリー










「ただいまー」
「あ、おかえりコーチ!」
「あれっ、、帰ってたのか?」


早かったなー、と言いつつ洞府に入って来たのは、コーチもとい道徳真君。
机に向かって何やら熱心に眺めていたは、師の帰宅に顔を上げた。


「ねぇコーチ、見て見て!」
「うん?」


道徳を手招きするは、手元の紙束を指差す。
革紐で閉じられたそれには、お世辞にも綺麗とは言えないが、丁寧さの伺える文字が並んでいた。


『11月1日
ぎょくせんせいに『にっきちよう』をもらった。きょうからにっきをつけます!』



「……へぇ、上手いじゃないか! 良かったなっ、頑張って続けろよ? 『継続は力なり』って言うしなっ!」
「おぉー!」
「あと、ここの『よ』は、小さく書くんだぞ?」
「あ」


くすくすと小さく笑う道徳に苦笑いで返しつつ、は指摘された部分を直す。
それが終わると、日記帳の裏表紙に、習いたての言葉を大きな文字で書いた。


「よしっ、けーぞくはチカラなりっ!」
「おうっ、その意気だ!」


顔を見合わせ、ニカッ、と笑う仲良し師弟。
その日からというもの、夕方の紫陽洞では、慣れない手つきで日記を書くの姿が見られるようになった。








『11月2目
きよう、うんちゃんにモモをもらった! ふつうのモモよりきらきらしてて、すごくきれい。たべるのもったいないなぁ、って言ったら、長もちだから5年くらいはだいじよーぶだよ、って。さっすがー!』

『11月3日
きのうもらったモモを、コーチに目せた。きれいだね、って言ってくれた! よく目えるとこにかざってくれた。へやの日月かりが当たってきれい!
でも、たかくて、手がとどかない。5年たったら、とどくようになるかなぁ?』

『11月4日
太乙のところにあそびに行った。モモのはなしをしたら、「太乙じるしのとくせいほぞんようボックス」をくれた。
これに人れとくと、10年はもつって! すごいなぁ!!』



「……明らかに危険物ではないか、その桃は!!!」


珍しく静けさに包まれていた紫陽洞に、叫び声に近い声が響く。
声の主・太公望は、反響する自身の声を気にも留めず、部屋に置きっぱなしにされていたの日記帳片手に半ばうわ言のような言葉を続けた。


「百歩譲ってキラキラしてるのはまだ許すにしろ、5年も持つ桃なんぞあってたまるか! んなモンあったらこのわしが真っ先に保存食として大量に取っておるわ! 道徳に太乙、遠ざけようとするのは分かるが何とか納得させて処分せんかい! いくらが気に入っておるからといって何かあってからでは遅かろうに、あの親バカ共が……!!」


意味も無くグルグルと辺りを歩き回る太公望に応える声はない。
それを受けて改めて思い出したのか、太公望の小言は紫陽洞の住人達へと標的を移す。


「だいたいあ奴らめ、人を呼んでおいて何処に行っておる……。しかもこの日記、誤字だらけのままではないか! ちゃんと直してやるのも親の役目であろうが。ったく、世話が焼けるのぅ!」


どこからともなく赤ペンを持ち出してきて、日記の誤字を正しはじめる太公望。
落ち着き無く貧乏揺すりをしながら力任せに添削を行う今の彼にかかれば、何だってイライラの原因に成り得るだろう。

しかしそんな太公望も、誤字を直すだけ直して一息つくといくらか落ち着いたのか、静かに溜息を吐いて腕を組んだ。


「しっかし……その桃とやらは、一体何処に……」


例えどれほど苛立っていても、自身の大好物を示すキーワードは見落とさない。
太公望はもう一度の日記に目を落とし、高い所……と呟きながら部屋を見渡す。
ほどなく、彼は部屋のよく目立つ所に透明な箱に厳重に入れられた桃色の物体を見つけた。

高い所、と書いてあるものの、それは小さなにとっての高さ。
難なく手が届いた太公望は、慎重にそれを下ろした。


「こ……れは、確かに、形は普通の桃だが……」


手元に下ろしてよくよく見てみても、の記載通りにキラキラと輝くそれは、どこからどう見ても食べ物とは言い難い。
ダメで元々、と分かっていながらも、太乙特製だという透明な箱に手を掛けてみると、意外にもすんなりと蓋が開いた。

太公望は慎重に箱から桃を取り出し、手袋越しに確認する。
上から見ても、下から見ても、叩いてみても、軽く握ってみても、得に怪しいところは見当たらず、何かが起こるという様子もない。
ゆっくりと鼻に近付け匂いを嗅いでみれば、香ってくるのは普通の桃の香り。
それどころか、そんじょそこらの物りも余程美味しそうな、熟しきった食べ頃のそれだ。

――自他共に認める桃好きである太公望は、思わず生唾を飲んだ。


「……いやいやいや待て待て待て。いかんいかん、いっくら美味そうでも、これは雲中子が持ってきた怪しい桃だぞ……!!」


ぶんぶんと音が立つほど激しく首を振り、誘惑を振り切ろうとする太公望。
気が済むまで、はたまた首が疲れるまでその動作を続けた彼は大きく嘆息し、もう一度その桃と向き合う。

……見つめる事数十秒。
ついに決心が付いたのか、彼は勢い良く身体を起こし、桃を片手に洞府の外へと一直線に駆け出した。


「……こんな危険物、わし……いやいや、にっ、危害が及ぶ範囲に……あっては、ならーぬ!!!」


ていっ、という掛け声と共に桃を握り締める左腕を大きく振りかぶり、その勢いのまま振り下ろす。
日の光を浴びてきらきらと輝くその桃は慣性の法則に従って太公望の手を離れ、仙人界の空気を切って進み、ついには人間界に向かって落下していった。

太公望は桃が完全に見えなくなるのを確認した後、一仕事したと言わんばかりに両手を叩き、紫陽洞を後にした。








『11月5日
きょうはぼーちゃんがあそびにくるはずだったんだけど、きゅうにげんしのじーちゃんにおよびだしをく……うけた。(「くらった」とかいっちゃダメって太乙が言ってた!)
コーチといっしょにじーちゃんのところに行ったけど、は白つると玉きょきゅうの中をたんけんしてた。かえる時に、じーちゃんにおかしをもらった。』



「えーっと、あとはー……」


太公望が人知れず紫陽洞を訪れ、住人達と会うことなく帰ってから数刻後。
最近の日課となった日記を書きつつ、が小さく独り言を零した。
そんな彼女の様子を眺めていた道徳は、愛弟子の呟きに返事を返す。


「あーそうだ、太公望には謝っとかないとなぁ」
「あ、そうそう! 『ぼーちゃんごめん! またあそぶやくそくをしよう!』っと……よしっ、きょーのにっき、おわり!」
「おうっ! ……、もう歯は磨いたか?」
「みがいたっ!」
「じゃ、おやすみだな。良い夢見ろよ、!」
「ん、おやすみコーチ!」


寝る前の日課を全てこなしたは、道徳に挨拶を返すと寝室へと駆けて行く。
ぱたぱたという軽い足音が遠ざかるのを聞きつつ、道徳は居間に開きっぱなしの日記帳を覗き込んだ。


「へぇ、だいぶ誤字脱字が減ってきたなぁ。普賢の教えの賜物か……ん?」


ぱらりと日記帳をめくった道徳の手が不自然に止まった。
彼の目線の先には、の字に混じる、見覚えのない赤い文字。
それはの文字をところどころ訂正したり書き足したりと、まるで先生の添削のよう。
その「先生」に覚えがなかった道徳は、うーんと唸りつつ首を捻る。


「どこかで見たことあるような字だが……ま、太乙とかそんなところだろ」


道徳は一人納得したのか、特に気にする様子もなく日記帳を閉じる。
それから彼もまた、大きく伸びをしながら自身の寝室へと向かって行った。

――居間の棚から消えたものに、気付くことなく。








「コーチ! ねぇコーチ!!」


……紫陽洞の次の朝は、の大声で始まった。
朝食の準備をしていた道徳は、駆け込んできたのただならぬ様子に目を見開く。


「どうした? 何かあったのかっ!?」
「あのね、あのね、たいへんなの! の……」

「……おーい、、おるかー?」


の言葉を遮って洞府の玄関から台所まで響いてきたのは、昨夜話題にしていた人物の声。
こんな朝早くから珍しいその人の訪問に、紫陽洞師弟は会話を続けるのも忘れて顔を見合わせた。

揃って首を傾げつつ、二人は来客のもとへと向かう。
開いた扉の向こうには、不自然に汗を流す太公望の姿があった。


「おはよー、ぼーちゃん」
「どうしたんだ、こんな時間から?」
「おう道徳、朝早くから済まんが、ちょっくらを借りるぞ!」

「「は?」」


予想だにしなかった言葉に驚く二人に何の説明も無く、太公望はの両手を取る。
訳の分からないまま、視線で道徳に判断を求める
そんなを見て、太公望を見て、道徳は「ちょっと待ってろ」と一旦洞府の中へと引き返す。
程なくして出てきた彼の手には、ひと包みの小さな荷物。


、これ、朝ごはんな。昼は太公望に任せるとして、夕方までには帰るんだぞ?」


包みを渡し、ニイッと笑っての頭を撫でる道徳。
そんな師匠の反応を見て安心したのか、も道徳を見上げて、太公望を見上げて、道徳に元気よく返事を返す。


「分かった! ちょっといってきまーす!!」
「……すまんな。そう遅くはならぬようにする」


なんともいえない表情で道徳を見やる太公望に、道徳は苦笑いして手を振った。


「……ねぇぼーちゃん、どこ行くの?」
「おぬしが無くしたモノよりよっぽど良いモノを取りに、な」








『11月6日
今日は一日びっくりだらけだった!!

まず、あさおきたら、きらきらのモモがなくなってた……。
コーチに言おうとしたとこで、ぼうちゃんがきた。あさからなんてめずらしー!!
それで、ぼうちゃんにつれられて、今まで行ったことなかったうき岩に行った。ぼうちゃんのひみつのばしょなんだって!!!

すごかったよ!
すっごいきらっきらしてる、おいしそーなモモの木がいっぱい生えてるの!!
ぼうちゃんはモモばたけをに見せて「こーいうしぜんなかがやきのモモがいちばんだ!」って言ってた。

そこでいーっぱいももがりして、あさごはんのつつみに入れてかえった。
入れすぎてかえりみちで一回こぼした。
がんばって入れなおしたけどやっぱり入りきらなかったから、そこで休んでおやつにたべた。おいしかったー!!

きらきらモモがなくなったのはざんねんだけど、やっぱりたべれるモモのほうがいいかも。

……あ、そういえば、あそこのことはだれにも言わないってぼうちゃんとやくそくしたけど、にっきに「書く」のはいいのかなぁ?』



夕日が傾いてきた頃の紫陽洞。
太公望とのお出かけから帰ってきたは、道徳にただいまの挨拶をするやいなや、早速今日の日記に取り掛かっていた。
見開きいっぱいに黒い文字を埋め尽くしているを見て、道徳がの隣に腰掛けつつ口を開く。


「……お、、今日の日記はやけに長いなぁ」
「うん! いっぱいびっくりしたから」
「そっか。楽しかったか?」
「すっごいたのしかった! ほら!」


満足気な表情を浮かべ、日記を道徳に見せる
道徳が差し出された日記を受け取り、目を落とした丁度そのとき、は「あ!」と小さく声をあげた。


「ん、どうした?」
「コーチ、ぼーちゃんとからおみやげ!!」


小さな手から道徳に差し出されたのは、彼が今朝方に朝食を入れて渡した包み。
そこから覗くのは、開かなくても分かる鮮やかな桃色と甘い香り。


「……アレの代わりってことか?」

「え、なに?」
「なんでもないよ。太公望に感謝しないとなっ!!」
「……うんっ!」


――その日から暫く、太公望がいつも以上に「桃」という単語に敏感になった理由を知るものは、道徳ただ一人だったという。




<リトル・ダイアリー ・完>




あとがき