AM5:30 周の都・豊邑にて任務開始。


薄っすらと朝靄に覆われた、周の繁華街の中。

用心深く物陰に隠れつつ、5本の指を持つ手に筆を取って、するすると手帳に筆を走らせる小柄な人影。
ゆっくりと昇り始めた朝日に照らされて地面に浮かんだシルエットには、ヒトのそれとは違う、ぴんと立った三角の耳。
ふさふさした尻尾はゆったりと左右に揺れ、その度に微風が起こって砂塵が舞う。

ヒトとは少々異なるその“人影”――殷から周へと送られた『公認』スパイ――聞仲の忠実な部下・香淑。
彼女は周囲を確認しつつ、更に手帳へと文字を書き足す。

月に日にちに曜日。天気は晴れ。湿度は低めで洗濯物は良く乾きそう。
静まり返った街の中で最初に店開きの準備を始めたのは、周で一番人気の点心屋。
これが人気店が人気店たる所以でしょうか――。


AM6:00 街が徐々に目覚め出す。点心屋の奥から湯気が上がり始めた。


「うぅ、美味しそう……」

香淑の、見た目は普通の人間と変わらない鼻がひくひくと動く。
小刻みに角度を変える耳で街の住人の動向を探りつつも、尻尾の動きは先程の倍といったところ。

犬の妖怪仙人である彼女の嗅覚は、ヒトのそれより余程優れている。
おそらく、店内に漂い始めた蒸したての点心の香り。
向かいの路地の隅に隠れた香淑の鼻を擽るには、十分すぎる破壊力を持っていた。


AM6:30 点心屋の店主に気付かれる。


「わぁ……」

点心屋との距離を無意識にじりじりと縮めていた香淑は、気付けば店先に出された蒸し器の前で目を輝かせていた。

文字がびっしりと書かれた手帳片手に、涎を垂らさんばかりの勢いで蒸し器を見つめる少女。
ただし、見た目は少女でも、実年齢は軽く千を超えている。
何とか耳と尻尾を隠している香淑の正体を知る由も無い店主は、健気に空腹を堪え勉学に励む少女に、暖かい笑みを向けた。

「お嬢ちゃん、何か知らんが熱心だなぁ」
「!! あ、いえ、その、わたし、は……」
「あっはっは、んなビビんなくてもいーだろ。ほら、朝メシ代わりにこれやるよ」
「……え、い、良いんですか!」
「おぅ、代金はいいから、しっかり食って勉強しろよー」
「有難うございます!」


AM6:45 朝食。楼々苑の店主はいいひと。桃まん一つで、日本円にして80円。お買い得です。


紙袋に入れられた点心を受け取った香淑は、礼儀正しく店主に一礼。
近くの公園の椅子に腰を下ろすと、袋を脇に置いて、再び手帳と筆を手に取る。
報告書らしからぬ宣伝文句が混じるが、聞仲様にも召し上がって頂きたいなぁ、と呟く彼女に悪気は無い。

筆を置き、熱々のそれに思い切り齧り付いた香淑は、変化が解けて激しく揺れる尻尾もそのままに歓声を上げた。

「ふわぁ〜、美味しーい!」
「……当ったり前さ。普通二時間は並ばねぇと買えねーんさよ、それ」
「!!!!」


AM6:50 黄天化があらわれた!


ずざざざざざ、と勢い良く砂煙を上げて椅子から飛びの退く香淑。
彼女が一瞬前まで居た場所には、にやにや笑いを浮かべる一人の青年。
全身の毛を逆立てんばかりに警戒心を露にする香淑を見て、彼はけらけらと明るく笑った。

「ひっでぇさねその態度。んなに避けんでも良くね?」
「うううううるさい! 何の用だ!!」
「……べっつに、香淑見つけたから挨拶しようとしただけさよ。けど、ちーっと気が変わったさ」

犬歯を剥き出して低く唸る香淑に、天化は肩を竦める。
敵意が無いことを示すようにひらひらと振ってみせる手には、小さな棒切れがひとつ。

「そんなに面白ぇ反応されちまうと、なぁ?」
「!」

犬を遊びに誘うように、天化の手元で棒切れが不規則に動く。
それと同じテンポで動く、香淑の目線と尻尾。

本能に抗えない自身を叱咤するかのように、彼女はぶんぶんと激しく首を振った。

「うっ……ば、馬鹿にするなぁっ! そんなの、欲しくも何ともないもん!!」
「ホントさ? ま、要らないなら捨てちまうからいーけど」
「っ!?」

棒切れを持つ方の腕を大きく振りかぶり、天化はニヤリと笑う。
彼の次の行動を予測した香淑は、負け犬の遠吠えよろしく、悲鳴にも似た叫び声をあげた。

「ひっ、卑怯者ぉぉぉ!!!!」
「あっはっは、ほーれ、取って……」
「こら」

――枝が地に落ちる音の代わりに響いたのは、ぱしん、という軽い音。


AM6:55 知らないひとがあらわれた!


「……望ちゃんと天化が女の子虐めてるって普賢が言ってたけど、まっさかホントだったとはねぇ?」

棒切れを持つ天化の手を止めたのは、彼のそれより白く細い腕。
聞きなれない第三者の声が介入してきたことで、香淑はきつく閉ざじていた両目を薄く開いた。

「や、これは、ち、違うさよ!」
「違うって?」
「えーっと……そうさ、コミュニケーションさ!」
「ふーん?」

天化が先程まで浮かべていたのに近い笑顔を浮かべて、彼の腕を取る少女がひとり。
藍色の髪と瞳を持つ、彼と同年代のその少女。天化が呼んだ名前に、香淑は覚えがあった。

「……えっと、さん?」
「なんですかー天化くん?」
「怒ってるさ?」
「コーチの言う“スポーツマンシップ”に則ってるか、よーく考えてみたら分かるんじゃない?」
「………」

香淑は二人のやりとりを尻目に手帳のページを捲って、『要観察人物リスト』を開く。
重要度が最も高いグループにある女性の名前と、今しがた天化が口にした名前は、見事に一致した。

ぱちぱちと二度大きく瞬きしたあとで、香淑は再び筆を取る。


AM7:00 を初認。観察に移ります。


「ごめんね、えっと……香淑ちゃん、で合ってる?」
「……え、あ、はい!」

身体を縮めて手帳に向き合っていた香淑の上に、控えめに被さる人影。
今まさに記述を開始しようとしていた観察対象者に声を掛けられ、香淑はびくりと肩を震わせた。
そんな彼女の事情を知る由も無いは、一歩彼女と距離を取って両手を挙げる。

「わ、ごめんね驚かせて。あと天化も……うちの弟弟子が、失礼しました」
「あ、いえ、こちらこそ……?」

丁寧な物言いと柔らかな笑顔を向けるに、香淑もやや警戒心を解く。
の後方の天化をちらりと見やれば、ばつが悪そうな表情でこちらを窺っている。
香淑はこっそりと手帳を開き、今しがた新たに作ったのページに一行追加した。


・黄天化はに頭が上がらない。


「望ちゃんもいい年して可愛い女の子虐めてるし。普賢もいい笑顔でさらっと遊びそうだし。発っちゃんにはもう会った? またプリンちゃーんって飛び上がって喜びそうだし、釘刺しとかなきゃかなぁ……あ、でもね、みんな悪いヒトじゃないんだよ」
「………」


はよく喋る。
・周の男性陣よりつよそう(立場的な意味で)。
・周のひとたちの中では少々異質。
・敵にも味方にも気遣いができるひと、らしい。



くるくると表情を変えながら、周の男連中の無礼を詫びる
彼らに散々からかわれて涙を呑んでいた香淑の中で、の評価は数段上がった。

黙ってを眺め続けていた香淑に、は一息つくと友好的な笑みを向ける。

「大変そうだね、公認スパイって」
「……そんなこと、ない……です、よ。大事なお役目ですから!」
「そっか」

ふわり。そんな形容詞が合う笑い方をするひと。香淑はと向き合いつつ、内心でもう一つメモを付け加えた。
つられて笑顔を見せた香淑を見て、もまたくすくすと控えめな笑い声をあげる。

ー、もうそろそろ鍛錬行くさー」
「!」
「あ、そーだった」

和んでいる少女二人に、居心地悪そうな表情のまま近づいて来た天化。
苦手とする彼の登場に、香淑は再び肩を震わせ思わず獣耳を露にする。
はそれを見て一瞬目を見開いたが、すぐに表情を戻して香淑に向き直る。

「じゃあね、香淑ちゃん。また今度ゆっくり喋ろ! ……あ、そーだ」

踵を返しかけたが、ふと何かを思い出したかのように足を止めた。
腰のポーチをごそごそと探った彼女が取り出したのは、蓮の花を模った干菓子。

「これ、お詫び、ってワケじゃないけど……むしろお近づきの印かな? 蓮華庵っていうお菓子屋さんのなんだけど」
「わ、綺麗……!」

目を輝かせ文字通り尻尾を振る香淑に、は「こっちもホントなんだぁ」と小さく呟く。
その言葉に香淑はぴくりと獣耳を動かし、わずかに身体を硬くしたが、それ以上何も言わずに一歩離れるを見て、ゆっくりと力を抜いた。

ー……」
「はいはい、今行くってー!」

待ちぼうけに飽きた天化の間延びした声に、は首だけで振り返る。
彼女はじゃあね、と最後に一言残すと、くるりと綺麗にUターン。
自慢の俊足で駆け出したの背中に向かって、香淑は「あの!」と声を張り上げた。

「これ! 代わりにあげる!」
「!」
「お」

元が犬である香淑も、足の速さは自慢のひとつ。
手元の紙袋からすばやく残りの桃まんを取り出し、追いついたの手に押し付ける。
ごく近くで聞こえた天敵・天化の声に、素早く飛び退き木の影に隠れることも忘れない。

「わ、楼々苑の桃まん!! ありがと!」
「ど、どういたしまして!」
「へぇ……」

遠慮ないニヤニヤ笑いを浮かべる天化の隣で、は爽やかな笑顔を煌かせた。


・周にも話の分かるひとはいるらしい。
・蓮華庵の干菓子は美味しい。お土産に買っていこうと思います。



――後日、報告書と周のお菓子を手に殷へと戻った香淑が、聞仲から地味にお小言を貰ったのは、言うまでも無い。


はいいひと! あのひとなら、仲良くなれそうです。




<end>




あとがき